日本最古の靴クリーム
日本最古の靴クリーム
明治・大正期ライオン靴クリーム本舗の誕生
1910年(明治43年) 6月
世界最初の旅客空輸ツェッペリン号がドイツ帝国で発航したこの年、ライオン靴クリームは日本最古の靴クリームとして開発・創成され、大洋商会の高原幸吉氏によって製品化・発売されました。(初代社長)
ライオン靴クリーム本舗の命名の由来は、おそらく1902年上野動物園にドイツ帝国のハーゲンベック動物園から初めて日本に来園した「百獣の王・ライオン」からではないかと伝えられています。
ライオンの横顔のロゴは、従来の製品パッケージに頻繁に使用されていたマークです。これは、シンプルでありながらも力強く、そしてライオンの特質を明快に伝えるロゴのため、5代目の 谷口弘武の代からはブランドの象徴として採用されております。
当時はコンピューターやPC等は存在せず、全て手書きによって制作されていたため、ロゴフォントは独自の書体となっております。
1918年(大正7年)
立志伝中の人物の話に憧れた谷口浄は、「夜学でも苦学でも勉強がしたい」と父に相談。父の友人であった大洋商会社長の弟である高原奥右ェ門がこれを引き受け、浄は福井県小曽原から単身東京へと向かい、大洋商会で働きながら勉学に励みます。13才の時でした。
1923年(大正12年)
大正期になると、大小合わせて10数社ほどの靴クリームメーカーが登場し、東京では20軒ほどあった小売店で直販されました。ライオン靴クリーム本舗は、当時常に競争していた各社と切磋琢磨しながら第一線で販路を広げていったと、谷口化学工業所2代目社長・谷口浄の回顧録に記録されています。
しかしこの年、関東大震災発生。当時まだ大洋商会の一従業員であった浄は、小曽原から上京していた高原幸吉・奥右ェ門の父を心配し、横網町の工場からご隠居のいる馬喰町へと両国橋を渡ってひた走ります。そしてこれが、浄の生死を分ける行動となりました。
死者・行方不明者数10万5000人という甚大な被害をもたらした関東大震災の、死者の9割は火災によるもの。そして最も大きな被害を出したのが、この横網町だったのです。震災の一時避難地となった横網町の被服廠跡地では、被災者の家具や荷物などに次々と引火して火災旋風が起こり、この地だけで3万8千人もの命が失われました。結果的に九死に一生を得ることになった浄は、繋いだ命で懸命な活動を重ねます。
昭和期戦時中での発展
1931年(昭和6年)
浄は国内を飛び回ると共に、朝鮮・満州・台湾総督府にライオン靴クリームの販路を広げるなど国内外を通じて活躍しましたが、この年に大洋商会の高原幸吉が亡くなります。浄は独立を決意し、大洋商会を円満退職すると共に、高原奥右ェ門の協力を得て三興商会を設立。事業内容はライオン靴クリームの代理店及び靴付属品の卸業でした。
三興商会で半長靴(革製安全靴・軍用ブーツ)専用の靴クリーム、イーグルメダルシリーズの商標を出願。1931年の満州事変を経た当時の日本では、軍需と共に革靴の需要が益々高まったからです。またこの後、東京靴クリーム同業会(任意団体)が、東京靴クリーム工業組合となり、相互の利益と親睦の団体となりましたが、その後各種物資の欠乏に伴い、統制されるようになります。
イーグルメダルシリーズは現在も自衛隊及び機動隊を中心に製造・販売を行っています。
1948年(昭和23年)4月
株式会社大洋商会の営業閉鎖。権利所得者代表高原右ェ門氏の死亡により、養子の司辻余次右門氏より商標権買い取りを依頼され、これを受諾。この時より大洋商会とライオン靴クリームの歴史を受け継ぐこととなり、同年8月には東京都台東区蔵前に営業所及び工場を新設しました。
1951年(昭和26年) 6月
組織を株式会社谷口化学工業所に変更。
同年ガード下の靴磨き少年を題材とした流行歌「東京シューシャインボーイ」:暁テル子(ビクターエンターテインメント)が大ヒット。当時の東京では、路上で靴磨きを行う職人や少年らが数多く存在し、日常的な光景となり、靴クリームの需要はますます高まりました。
1953年(昭和28年) 6月
靴クリームの需要の拡大と共に蔵前工場が手狭になり、消防署からも工場を移設するよう指示があったため、東駒形にあった旧麻袋倉庫の土地が売り出されたのを機に、東京都墨田区東駒形に東京工場を新設。9月に操業を開始しました。
1955年(昭和30年)
この年から日本は高度経済成長期に突入し、1973年(昭和48年)まで19年間もの長きにわたり、年平均10%もの成長を続けました。
谷口化学工業所もその追い風を受けて大きく成長します。ただ、3代目嘉清による方針は、「闇雲に事業を拡大するのではなく、あくまで靴クリーム・レザーケアといった既存の事業と向き合い、丁寧な製造や品質の維持にこだわり続ける」という、まさに地に足を付けた堅実な経営方針を目指しました。
なお、この時期には2代目・3代目による初の欧米視察なども行われており、「世界の広さには圧倒させられた」と語っています。事業の発展と共に、ぶれない指標を兼ね合わせる谷口化学工業所の方向性は、この時期に固められていきました。
1964年(昭和39年)
NET系「テレビ寄席」にて、提供として「ライオン靴クリーム本舗」のCM放送開始
1973年(昭和48年)・1979年(昭和54年)
第4次中東戦争を発端とする第一次オイルショックと、イラン革命を発端とする第二次オイルショックにより、原油価格が急騰したことによる急激な物価上昇・インフレが日本を襲いました。国内で毎月1000件を超える企業倒産が続く大不況の中、谷口化学工業所もまた困難の連続に見舞われますが、3代目による「前向き」という言葉を忘れないアプローチが、危機を乗り越える原動力となりました。
1986年(昭和61年)
バブル経済がスタートし、空前の好景気に日本中が沸きました。しかし1991年にバブル崩壊。谷口化学工業所では営業所の閉鎖に踏み切るなどしてコスト削減に勤めることになりました。
平成期新たな世代の始まり
1996年(平成8年) 3月
「5年後、10年後を見据え、未来に繋げる」という想いを持ち続けた4代目・谷口潔の指揮の元、事務所と工場を一体化させることで生産効率を高めるため、東京都墨田区に新本社・工場併設ビルを建設・完成。
目まぐるしく変化する日本経済に対応すべく、新しいものを取り入れると同時に、伝統的な製造製法なども残し、変えるべき部分と変えない部分を見定めていきます。その結果が、現在のライオン靴クリーム本舗の「価値ある製品」そしてブランドの力に反映されていきます。
2010年(平成22年) 6月
創業100周年。
2018年(平成30年) 10月
本格派シューケアシリーズ「エクセレント」販売開始。
製品の品質だけでなく、パッケージ、容器の選定などにもこだわり、「レトロかっこいい」をテーマにしたデザインで製品化を行いました。」
令和期そして現在
2020年(令和2年)
環境問題や鳥獣被害問題に対し、メーカーという立場から想いを伝えるために製造に踏み切った「自然から作ったシリーズ」の販売を開始。
エンドユーザーに共感を得られる製品作りをすることの大切さを学ぶと共に、谷口化学工業所が更なる一歩を踏み出すための大きなターニングポイントとなりました。
2021年(令和3年) 4月
5代目となる谷口弘武社長就任。
初代谷口浄が亡くなるその瞬間まで社長を務めたこともあり、3代目谷口嘉清もまた死ぬまで社長を勤めるつもりでありましたが、外部環境が大きく変化する中、会社としての在り方も大きく変化させていかなくてはならないと感じた5代目・谷口弘武社長による「組織としてのスピードを高めるために承継してほしい」という説得により、引退を決意。そして4代目の父・谷口潔もまた、早期に引退を決意しました。
弘武社長が考える会社の方向性は、「ブレない会社の方向性を定め、組織としてその方向に向かってゆくスピードを高める」というもの。そして快く決断してくれた父潔の懐の深さに深く感謝したと語っています。
2021年(令和3年)10月
「クロマニョンペイント」の販売を開始。
培ってきた知識や技術、保有している設備を活用し、DIY専用木材塗料の製造を開始。
業界を越えてアイデアをカタチにし、木材塗料メーカーとしても一歩目を踏み出し始めました。
それぞれの時代を振り返って
2代目社長・谷口浄の時代は、立志伝中の人物を夢見た浄が、自ら立志伝を打ち立てるに至るドラマティックな時代でした。そして度重なる戦争や大災害の中でも、決して負けずに立ち上がり駆け抜けんとする、谷口化学工業所の土台を作った時代でした。
3代目・谷口嘉清の時代は、東京大空襲で母と弟を亡くすなど大きな傷跡を残した終戦から這い上がり、高度経済成長期と共に躍進を続ける中でも、あくまで革靴とレザーケアに向き合い、製品の品質を高めるという、決してぶれないモノづくりの方向性を固めた時代でした。
4代目・谷口潔の時代は、日本経済のうねるような大きな変化に対応し、組織と伝統を必死に守りながら危機を乗り越え、変える部分と変えない部分を見極めながら、谷口化学工業所という会社の価値をしっかりと見定め、未来に繋いでいった時代でした。
そして5代目谷口弘武は、自分の時代を「可能性を探し続ける世代」であると語ります。
価値ある物を継承し、更に価値を高めていくことが事業承継となる。培ってきた技術やノウハウを活かしながら、いかに多くのことに挑戦し、成長し続けられるかが次の世代にバトンタッチするまでの肝になる。モノがありふれている社会の中で、自社の得意分野を更に際立たせ、会社の価値を高めていくことが重要な取り組みになると考え、「谷口化学工業所という会社の得意分野を際立たせ、可能性の幅を広げていく」ことに向かい、日夜邁進しています。
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